じぶんを知ろう♪アトリエkeiのスピリチュアルなシェアノート

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カテゴリ:◇日々の気づき( 113 )

自分のアニマル・スピリット・ガイドと話してみた

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最近「アニマル・スピリット」がとっても気になる件。

「アニマル・スピリット」とは、地球の動物たちのエネルギーのことで、ネイティブアメリカンの思想なんかでよく登場する。
彼らは、動物たちのエネルギーと時間をかけて関係を築き、人生の様々な場面でいろんな動物たちの能力を借りて難局を乗り越えたりしていたそうだ。

私が今気になっているのは、自分の中にある「アニマル・スピリット」だ。
それは自分がもともと持っている「地球」としての側面でもあり、自分の魂の歴史とも縁の深いもので、私たちを守護し導く「ガイド」としての役割も持つ。

なんとなくなんだけど、今この「自分の中の地球」と繋がる必要性を強く強く感じる。
それは、私たちが忘れてしまっている何かを取り戻すような感覚だ。

ということで、先日判明した私の「アニマル・スピリット・ガイド」の「サイ」さんに会ってきた。

サイさん、
「私たちはあなたの一部だ」と言う。
「あなたの持つ隠れた側面、あなたが思ってもみなかった自分の一面」と言う。

そこで、すこし突っ込んで聞いてみた。

kei:あなたと繋がるメリットはなんですか?

サイ:あなたが自分の能力として私たちの長所を使うことができるようになります。

kei:長所を使う時はどうしたらいいのですか?

サイ:心の中で私たちを思い浮かべて手伝って欲しいと願ってください。
または、自分には私たちの長所が備わっているとイメージしてもらうのも素晴らしいです。

kei:天使との違いは?

サイ:私たちはあなたの能力の一つです。
天使の役割は、私とあなたが前に進むのを助けます。
あなたが前に進むため、羽を広げ道を照らすのが天使の仕事。
私たちはあなたという器の中であなたの能力として活躍します。

kei:あなたはどんな風に私を助けてくれるのですか?

サイ:私はあなたが持つ地盤を固めます。
固めながら一歩一歩確実にあなたを前に進めます。
確実に、しずかに。

※※※

なんか、とってもあったかい気持ちになりました。
今私が特に「現実」にフォーカスしているのも、ここのサポートがあってこそなのかもしれません。

私のサイさんは「シロサイ」という種類だと感じています。
調べると「シロサイ」は絶滅の危機にあるそうです。

自分の中の地球と繋がること
すごく大事な気がします。

ということで、「スピリット・アニマル・ガイドと繋がろう♪」という企画をやってみようと思います。
ご興味ある方は、明日の投稿で募集しますので、是非ご参加ください☆


by atelierkei-0520 | 2019-10-17 22:33 | ◇日々の気づき

2019秋分の日のぶっちゃけトーク:あなたは自分の「現実」に満足していますか?

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今日は秋分の日
昼と夜が同じ長さになる日です。

「バランス」
昨日、やたらとこのメッセージがやってきました。
秋分の日というのも、「昼」と「夜」がちょうど拮抗している日で、まさに「バランス」を象徴していると感じています。

「バランス」
何のバランスかって言われたら、今の私にとっては「現実」の自分と「高次元」の自分かな。

今日という日のタイミングが、私にとって、また似たような状況の人にとって、本当の意味で前進を始めるスタート地点になるんじゃないかななんて感じています。
「バランス」を取りながら、見る「現実」を変えていくんです。

なんか、スピをやっていて、最近つくづく思うのは、「現実」と「高次元」への意識の向け方のバランスが取れている状態が、人はもっともパワフルだってことです。
今やっている「ホ・オポノポノ」も実はこのバランスを取れるようになるためのスキル・考え方なんだと、しみじみ感じています。
これ↓


「高次元」の自分に意識を向けるのは、自分の大きな目的のようなものを確認するため。
そして「現実」に目を向けるのは、実際に行動することでそれを実現するため。

人が前向きに生きるって言うのは、実はこの二つは両輪ではずせないのです。

でも、スピに目覚めた始めの頃、前半っていってもいいのかな、この時期にはそのことがわかっているようで、わかっていない。
スピリチュアルに目覚めて、いろんなことが感じられるようになったり、わかるようになったり、
高次のすばらしい存在と触れ合うことで「愛」とか「ワンネス」の視点を体験できるようになったりすると、本当にちょ~幸せな気分になって、未来は明るいと思う。
知らないことが知れるようになると、それだけで前進していると思うし、ワクワクして、生活にも張りがでます。

私たちの周りには自分も含めていろんな状態の人がいて、その中で、「幸せだね~」っていっている人をよくよく観察してみると、2パターンあるのがわかります。
一つは、人生でいろんな経験をして「+」も「-」も消化して、そして自分の人生を見たときに「もう幸せしかないな」と悟ってるタイプ。
もう一つは、先に書いたスピ前半の人のタイプで、あえて自分の「-」面を切り離して、「幸せ」を体験しているタイプ。

前者は、現実がちゃんと動いてる。というか動かしてる。「高次」に自分がいながらも「3次元」にも生きる自分がいる。
でも後者は、「高次」に比重が傾いてる。現実は動いてるようで、実はあんまり動いていない。

今改めて思うのは、私自身は88まではこのスピ前半タイプだったなってことです。
でも、これって仕方がないんだよね。だって、前半は「幸せ」って何なのかを知るためにあるから。「-」を持ったまま、高次は体験できないから、あえてそこを切り離して「幸せ」を体験してみた。

そしたら、そこはものすごく暖かくて、優しくて、本当に素敵な世界で、自分も成長した感じがした。そこにずっといたいと思った。
でもね、気がついたんです。
あれ?私の足元って、まだここに着地してないって。
一緒に幸せを感じていると思っていたあの人たちにはあって、私にはないものがあるって。
私には「全てがある」
それは私もあの人たちも変わらない。
でも、現実を生きるって、もう一つ絶対的に必要なことがある。

ここにいる時に持ちがちな勘違いっていうのがあって、
それが「高い波動でいたら、現実はついてくる」って思ってしまうこと。

でも、これって大切なことが抜けている。「行動」がぬけている。
本当は「高い波動でありながら、“行動”すれば、現実はついてくる」

スピ前半の人状態だと、現実の大切さがすぽんと抜けてしまうことがある。
「どうしたら高い波動でいれるのだろう」「幸せな状態でいるためには?」とか、行動よりも意識を優先する。
自分が求めているのは「事象」じゃなくて、「感情の状態」なんだって思うから。

私は88で「スピの活動を続けられないかもしれない」と思った。「ジュエリーの活動を続けられないかもしれない」って思った。
「幸せ」が私の魂の求めることなら、どちらもあきらめてもいいはずなのに、そうはならなかった。
「私は、この活動をしたい!自分の人生をかけて。あと何年できるかわからないけど、それでも私は今世、この現実はこれでやっていきたいんだ!」
そう心が叫びました。それは私の「幸せ」と対をなす「行動」の部分の叫び。

「幸せ」と「行動」はどちらが欠けても「充実」にはならない。
私にとっての今日の日はもう片方の車輪を取り戻すために再スタートを切った日という、「記念日」になると思っています。

もしあなたが、今の現状に満足していないのなら、もしかしたら目を向けるべき部分があるのかもしれない。
今日は秋分の日。
この前後の期間は「昼」のエネルギーと「夜」のエネルギーのバランスが取れる日。
自分の中の「バランス」に目を向けることができれば、きっとそこに強いエネルギーが入ってきます。

本当は今週のメッセージを投稿予定でしたが、なんかこれを書きたい気分になりました。
よい1日でありますように(^^)

by atelierkei-0520 | 2019-09-23 14:33 | ◇日々の気づき

バイバイ♪ シャーマンの記憶

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9月9日は、どうもすごいエネルギーだったように感じています。
8日から急激に体が重くなってきて、突然喉が痛くなってきました。
そして9日に入ると、体の各パーツがばらばらになったような歪みを感じて、本当にしんどかったです。
10日も少し引きずりましたが、今日はいつもどおりに戻っています。

毎度のことですが、流れというのはすでに計画され、私たちは完璧にそれをこなしているようです。
3年前の「9月9日」のことを書いた記事がアクセスが多くなっていて、「何書いてたっけ??」と見直すと、
「あ~~!!これってライオンズゲートから9月9日の辺りに起こったことだったっけ!?忘れてた!」という内容でした。
この時のことはちょ~個人的な話しだし、なんともいえない話なのでここにはまだ書いたことはないんですけど、すごく衝撃的なふしぎ体験をしていました。

で、今またこの時とは違ったふしぎな流れを体験しています。
今年は「ライオンズゲート」でそもそもに立ち返り、その流れで「ホ・オポノポノ」を本気でやるようになり、その中で、自分の中の魂の記憶にこの「ホ・オポノポノ」に通じる何かがあるのだということ、いまさらながらを知りました。

そして、今日、この流れの中で、私が本当に向き合わねばならなかったことに気がつかされ驚いています。
それは、人類の「シャーマニズム」の歴史でした。
人類なんていうと大げさですね、「私」という魂が経たシャーマニズムの記憶というべきかもしれません。

私はもともと、オカルトの類はあまり興味がなかったので、この「シャーマニズム」というカテゴリーはあまり詳しくはありません。
興味がなかったというよりは、完全に「いかがわしいもの」「謎のもの」という認識でした。
科学的ではない未開の地の人たちの信仰。そんな認識でした。

でもスピリチュアルを学んだり、最近のメディアのそれらに対する取り上げ方も変わってきたせいもあって、「シャーマニズム」といえば謎の信仰のイメージだったのが、そこにネイティブアメリカンなどに代表される自然と共に生きる人々の神秘的なイメージが加わり、今は肯定的なイメージに変わっています。
また今のポリネシア辺りなのか、そういう島で暮らす先住民だった過去世もみているので、自分も無関係ではなかったのだと思うのと、その時の記憶が穏やかなものだったので、やはりいいイメージを持っていました。

今の私たちが忘れてしまった、実は超高度なエネルギー的な知恵を持っている人たち。またその人たちの文化。
「シャーマニズム」の定義とはちょっとずれてくるのでしょうが、この辺りを思うとそんな人や文化のイメージのようなものがポワンと浮かぶようになっています。

自分や他の人の魂の記憶の中に、この知恵が封じられる場面を何度か見て、その終わり方に「しかたがなかった」と思いながらも寂しさを感じていました。
先日ジュエリーの仕事でデザインのイメージを探していてたまたま見つけたインカの文明が終わったときの話を知った時も、同じでした。

「なぜ終わったのか」
それは地球上がこの素晴らしい知恵を持った集団が存在できる波動の世界ではなくなったのだということは感じましたが、そこをもっと掘り下げることはしませんでした。
大きな目で見れば、こういった文明を滅ぼす要因になった別の価値観を持つ文明も「必要だった」といえるのだとはわかっても、やり口は気に入らず、なんとなく「滅ぼされるもの=被害者」「滅ぼすもの=加害者」という図式が頭の片隅でいつもくすぶっていました。

でも今日、その滅ぼされる側の「被害者」と思っていた人々の中に「こんなものなくなってしまえ!!」という自分たちの文化に対する怒りがあったということを知りました。
そしてそれは、私の中にもあり、それがスピリチュアルという世界に懐疑的だった自分の土壌になっていたのだと気がつきました。
そしてそれは今でも私の中の「重石」になっている気がしています。

物事は波動が高くなればなるほど「シンプル」になっていきます。
そして低くなればなるほど複雑にややこしくなっていき、決まりや駆け引きが多くなっていきます。

シンプルだった「祈り」が、時間を経て人々の意識が3次元に沈んでいくことにより、それは複雑な「呪術」になっていきました。
すべては、ただ「認められたいがため」「自分だけが認められたいがため」。
そして、それは「まとめる」という表現の「束縛」「支配」でした。

そのために様々なエネルギーを巻き込み、だまし、束縛し、そして自分自身もがんじがらめになっていった、そういった側面がシャーマニズムの歴史にはあったようです。

私たちが、一度はスピリチュアルという世界を自分たちから切り離したのには、今改めて別の視点から見るためだったのかもしれません。
そうやってそこから抜け出すしか方法はなかったのだと思います。


モーナ・シメナオ氏から始まって、ヒューレン博士やKR女子に引き継がれた「ホ・オポノポノ」の本の中には、あまりそれ以前の話がありませんでしたが、それが何故なのかが理解できました。
彼らが紹介してくれる考え方はとてもシンプルです。
この考え方を理解して、今やっと私の中の記憶は本当の意味で修正され、「重石」は解消されて行っている気がしています。
「スピ」に対する抵抗の気持ちは、よく「魔女狩り」の記憶を持つ女性に見られますが、こういった古い「呪術」にまつわる負の記憶も多いのかもしれないな~と思ったのでした。

でも、一つだけいえることは、こういった類の「呪術」はもう使えないってことです。
そもそも、不可能なのです。
だって、もう地球が3次元じゃないから^^
「自分は3次元で生きている」と思い込んでる人同士の間では、可能かもしれないけど、
そうじゃない人たちにとってはもう異次元の話です。

残っているのは、その時の記憶だけ。
「記憶」だと気がつけば、さよならすればいいだけです。

私は今日、さよならしてみました。
そうしたら、外で雨が降り出しました^^
浄化の雨が降ってくれたようです。
とても優しい雨でした^^


by atelierkei-0520 | 2019-09-11 23:19 | ◇日々の気づき

ガイドさんの交代

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私たちにはたくさんの目に見えない存在が「サポート」としてついてくれている。
その中でも「守護霊」と呼ばれるグループがあって、私はそのグループのトップを「メインガイド」または「ガイド」さんと読んでいる。
サポートチームの代表例として「天使」というグループもあるが、天使が人間の経験がないのに対して、
この人たちは、地球人の場合もあれば、宇宙系の場合もあったりいろいろなんだけど、共通するのは「3次元の経験がある」って点だ。

だから、3次元の私たちに与えるガイドさんの影響力はかなり大きい。
この「メインガイド」というエネルギー体が交代する時は、自分の中の一部のプログラムが書き換わると言ってもいいと思っている。

ここ数年、人によって時期に差はあるものの、多くの人の中でこの「メインガイドの交代」が起きているのだけれど、今の時期、特に「ライトワーカー」と呼ばれる人の中でガイドさんの交代が起こっているのではと思っている。

交代の目的はアセンションのこの時期での「静」から「動」への移行じゃないかと思う。
「静」とは「忍耐」とか「学び」といってもいいかも。
「動」は「解放」「行動」かな。

先日、「エンジェルサポートレッスン」の生徒さんに他人のガイドさんに会うという練習で、私のガイド(メインガイド守護霊)さんに会ってきてもらった。
登場したのは、女性でオランダとかその辺の貴族っぽい人だったということだった。

私のメインガイドは「マーシャルおじさん」という過去世で縁があった男性なのだが、少し前、来月の中ごろにガイドが交代すると聞いていた。
そして今日、この女性の方が私の新しいメインガイドになるということが分かった。

ガイドの交代も、「移行期」のようなものがあるようで、どうも少し前からこのガイドさんはもう私のもとにいたようだ。どうりでマーシャルおじさんが静かだったわけだ。
今日は自分でガイドさんに会いに行ったのだが、笑顔で上の女性が出てきて、その後ろにマーシャルおじさんがはにかんで笑ってた。

「マーシャルおじさん」は、生まれた時から私を見守っていてくれた人で、スピに目覚める前から節目節目で夢に登場してくれていた。
決まって、ものすごく暖かいエネルギーで私を包んでくれて、そのメッセージはいつも軽やかだった。
「マーシャルおじさん」は人間だった時は労働者下級の人だった。
にもかかわらず、幼い前世の私を拾ってある時期まで一緒にいてくれた人だ。
厳しい環境にも心は蝕まれることなく、「愛」にあふれた人だった。人間としての地位は低かったが波動の高い人で、「おじいさん」になる前にこの世を去った。

かつての私を助けてくれたように、私の「静」の時間を見守っていてくれたマーシャルおじさん。
そしてこれからの私の「動」の時代を支えてくれるのは、なんとまあ、対照的な上の写真のバラのような女性でした。
不思議なんだけど、ここ数日いろいろとやっていて、それが全部「男性性」のものだったせいか、なんかちょっと脳からアドレナリンがでまくっていたんだけど、ふと「あ、あの生徒さんがあってくれた女性にあってみたい」と会いに行くと、帰ってきたら、なんか心が「ふわん」と優しくなっていた。「しゅわわ~」と脳の興奮が収まった。


あ~、ガイドさん、代わるんだね。。
ずっと受け入れられなかったのが、今日始めて、「すっ」と受け入れることができました。

ガイドさんとの関係が暴露されていく過程が「マーシャルおじさん」の場合すごく面白くて、そんなサプライズで私を喜ばすところもマーシャルおじさんは、おじさんっぽくて、私はこの人が大好きでした。
「自分の話シリーズ」でおじさんとのことを詳しく書いてみたいとも思っています。

マーシャルおじさん、お疲れ様でした!

って、まだあと交代まで2週間くらいはあるか!
わはは^^♪





ただいまこちらのワークを募集しています☆








by atelierkei-0520 | 2019-08-29 22:38 | ◇日々の気づき

モノたちの声

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「記憶」と向き合っていると、本当に不思議だ。
今「作業台の掃除」をしている。
ずっと「やらなきゃ〜」と思っていて、先延ばしにしていたのだけど、先日「ホ・オポノポノ」をやっていたら、これがキーワードできたので、やっと重い腰をあげた。
オーダー待っていてくださっている方には申し訳ないのだけど、「クリーンなエネルギーで取り組んだ方がいいよね」ってことで、お掃除を優先した形だ。

はっきり言って、私は整理整頓があんまり得意じゃない。
一瞬はきれいになるけど、いつもすぐ散らかってしまう。
少し前に「ガラクタ捨てなきゃ!」ってかなりがんばってモノを減らしたけど、やっぱり見た目はそんなに変わらないし。

昨今の片付けブームの中で、私も知恵だけはちょっとだけついた。
だから自分のこの散らかりの原因は、モノに正しい住所をあてがうことができていない、ということだろうと思っている。
彫金の作業台はとにかく散らかる。
ありとあらゆる工具は散乱するし、削りカスや研磨粉が散らばるし、果ては、菜種油とヤニと松灰でできた「ヤニ台」という固定道具を火であぶったりするので、いつの間にか周りのあまり使わない小物たちにうっすらと油とヤニの膜が貼ったりする。

いつも片付けの前に私が陥る状態が、「途方にくれる」という状態だ。
「いったい、どうやって、この小物たちを“正しく”こんどこそ散らからないように、且つヤニでべたべたにならないように、収納していけばいいのだろう………」と。

今までの私の知識では、とにかくモノを減らすことが重要だということで、どうやって処分するものを選ぼうかと思案するのに時間がかかっていた。
ところが、今回はちょっとだけ感覚が違った。たぶん「ホ・オポノポノ」の影響かなと思う。
「とりあえず、一つ一つのものの埃とヤニを拭いて、処分するとか片付けるとかは、その後に考えよう…」と動き始めたのだ。
小さなケースや瓶に向き合いながら、石鹸をつけたぼろ布で汚れをふき取り磨くと、その下にはきれいな本来の姿が現れ始め、私の中から自然に「ごめんね・ゆるしてね」が出てくる。こんなになるまでほっててごめんって気持ちだ。
「あ、これってまさに“クリーニング”じゃん♪」と楽しくなってきて、ふと思いついた。
「あ、そうだ、“片づけができない”っていうのも徹底クリーニングしてみよう」と、手を一旦止めて、片付けにまつわるいろんな思いをクリーニングしていった。

そうしたら、ある瞬間にちょっとびっくりなイメージがひらめいた。
それは、「ものの配置」のイメージだった。
「えええ〜!?そんな置き方、考えても見なかった!!」というもので、はっきり言って「目からうろこ」、まさにインスピレーション。
あまりにも考えたことのなかった置き方だったので、ちょっと躊躇もした。
「でも、やってみないとわからんもんな…。。」ということで、さっそくやってみた。
始めはちょっと違和感。「う〜ん、どうなんやろ」とも思ったけど、とりあえず一日置いて、他のところを片付けていたら、
なんと、だんだんとその配置がなじんできて、すごくすごくいい感じになってきたのだ。
すごく集中できそうというか、モノたちが、みんなが、一つの目的に向かっていける感じというか。。

このインスピレーション、どこから来たのかといえば、
なんか、「モノたち」からのような気がする。
私が、モノたちに心を開いた形になったからなのか、モノたちが答えてくれた。
そんな気がしたのです。

「処分する」っていうのも大切なことなのかもしれないけど、そういうことにしか意識が向かなかった時には、経験できなかったことだなと思ってとても不思議だ。

昨日は寝る前に「寝てる間もガンガンクリーニングします!ウニヒピリ、創造主、よろしく♪」といって寝ました。
そうしたら、かなりディープな記憶が夢という形で浄化されていった。
細胞の記憶、「肉」の記憶。絶対正気の時には見れない記憶。
漫画チックだったからかろうじて見れたけど、起きてげんなり^^;
でも、溜め込んでいてはどうしようもないものだったのだろう。

来月は私のメインガイドが交代する。
その前の調整なんだろうなと思っているので、とにかくクリーニングするのみだなと思っています。
今、多くの人が「ガイドの交代」を迎えていると感じています。
「手放し」に取り組んでいる人も多いとか。
そんな話も、また次回^^



ただいまこちらのワークを募集しています☆



by atelierkei-0520 | 2019-08-27 23:19 | ◇日々の気づき

体へのアプローチが知りたいという一件②

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前回の続き
前回の投稿↓
「体へのアプローチが知りたいという一件①」


「体は“治す”のではない。“元に戻す”のだ。」

これは、かなり前に創造主にどうすれば体を治すことができるのか?と聞いたときに返ってきた返事だった。
私は、この言葉を聞いて、体を改善させるためには「治す」という概念ではそれは行われないのだということを初めて知った。

「発想を変えなければいけないのか…」
アドバイスはとても新鮮だったけど、でもその「元に戻す」という意味がどうやっても掴めなかった。
問題が起こる前の段階に戻すことなのか?
ということは時間を戻すということ?そんなこと可能なの?
毎日、確実に時間は過ぎていって、自分も確かに年をとっている感覚がある。
そんな中で「時間を戻す」???

この時私はこのヒントの探求に夢中になるも、これ以上のことは全くわからなかった。
私の波動状態では到底これ以上は進めないのだと悟り、ここから離れることになるのだが、昨年の強化月間の時に、体へのアプローチが少し前進することになった。

その時のことはこちらにも書いた↓



意識を集中させることによって面白いように腱鞘炎が改善した時、「腱鞘炎はなんとかできる」なんて思った私はまた無理をし腕を再びおかしくしてしまったのだけど、「大丈夫、治せるもん♪」と余裕をかましてやってみるも、なんとその時は同じようにやってみてもうまくいかなかった。
焦った私は、本当に自分の浅はかさを後悔し、改めて体について考えを改めた。
「体はモノじゃない」
その時、無理をさせたことを心から体に詫びて、そしてもう一度静かに体に耳を傾けた。すると今度は体は反応し、それによって再び改善してしまった。
この時、初めて体に対して敬意を表する気持ちが私の中で出来上がった。
「心から接すれば、体は聞いてくれるのかもしれない」
その時思い知ったのは、「治してやる」「やってやる」「できる」そういう3次元的な発想では、この変化は起こらないってことだった。
どれだけ真摯に体と向き合うか。本当に体と向き合う心がそこにあるのか。
そんなものが体に変化を起こすためには絶対的に必要なのではと感じた。

この時に掴んだもう一つの感覚は「体は自分で自分を治す」ってことだった。
だから体のヒーリングで必要なことは、その体の動きを促すこと、そしてもう一つは邪魔しないこと、これがもっとも大切なのではと思ったのだ。
これだけわかれば、もう何でも体に関しては「わかった!」となるかと思ったりしたのだけど、実際はそうはいかなかった。
何かが、なんというかモヤモヤしているというか、言語化できないというか、理屈がわからないというか、これ!というものが足りないというか。。
で、やっぱり、この後も手ごたえがあったり、なかったり。

「向き合う心」
これもなかなか難しい。
だって、「治ってほしい」という思いが、どこから来るのかってところによっても、この心のエネルギーも変わってくるし。

ということで、ここでもまた自分の限界を感じ、あきらめるわけではないのだけど、「体」へのアプローチをこれ以上追及することは一旦棚上げにした。
なぜなら、今の自分の波動では「ここまでだ」ということがわかったので。

物事の探求というものは、それを知りたいという揺るがない「意志」も必要だけど、こだわりすぎるといつの間にか「執着」という重い波動を持つようになる。
このブログでも何度か書いているけど、全てのものは波動という周波数によって分けられた細かい「次元のレイヤー」の上にある。
知識もテクニックも全て。
だから何かを知りたいと思っても、その情報が今の自分より上のレイヤーにある場合は、「今」の自分では絶対にそれを手に入れることはできないのだ。
だから私は最近はこういう状態になったら結構ささっと切り替えができるようになった。
でも追求を全くやめたわけでもなく、ルナの事件や自分のことや家族のことなどで考えるきっかけがあればいつもやっぱり考える。

こうしていつも何処かしらで「体」に思いを馳せる私だったが、この間は初めに書いた創造主の「体は治すのではない。元に戻すのだ」という言葉をすっかり忘れていて、何故かこの言葉を思い出すことはなかった。

ところが、そうこうして今年、あれ??と思う瞬間があった。
その時に思い出したのです。この創造主の言葉を。
そういえば、そんなこと言われてたっけ?って。
あれは、もしかしてこのこと??って。


「体は“治す”のではない。“元に戻す”のだ。」

“元に戻す”とは「時間」ではない。

“元に戻す”とは「感覚」なのだ。

細胞がもつ「感覚」
これを“そもそもに戻す”

それが「体が改善する」ことになる。。のでは???

つづく



by atelierkei-0520 | 2019-07-19 22:51 | ◇日々の気づき

体へのアプローチが知りたいという一件①

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数日前から「毒だし」期間に入っているようで、今日はなんだかものすごく喉が痛くなってます。
ここ1ヶ月ほど、いや、もう少し長い期間かもしれませんが、感覚的に私は今「喉のチャクラ」を調整する動きに入っている気がしています。
個展1週間前から「ぎっくり首」になったりしましたが、「首」も痛くなったり治ったりを繰り返す中、必ず首が痛いときに前側の「喉」にも違和感を感じます。
そして今日は「喉」が痛くて咳が激しく出ます。

今地球上で起こっているアセンションという次元上昇では「心」だけではなく「体」も高い周波数にあわせて変化しているといわれています。
そのせいなのかはわかりませんが、少し前から私は「体」にとても興味を持つようになりました。
スピリチュアルを学んだのは、「天使」や「守護霊」や「前世」などを知ることで「心」の状態がよくなっていくことに興味を持ったからでしたが、最近はその学んだことで「体」にアプローチできないのだろうかってことの方に興味が移っていっている感じもします。

なぜなら、「心」がひと段落すると、なんか「体」だと思ってしまうのです。
なぜなら「心」と「体」は常に同期しているから。


例えば、一昨日から、なぜか久々に「自分が情けない」という感情がどんどん出てきて困ってしまいました。
とにかく人と比べては自分が情けなく感じて悲しくなるのです。
「ちぇ、なんだ、まだ残ってるのかあ」なんて少々うんざりしながら「思い癖だ!抜こう!」と思っても、いつものようにうまくその思考から抜け出せません。
なんだか「できない」というよりも、その思いを手放そうとする気が全くない自分がいるような、不思議な気がしました。

それが昨日の朝まで続いたのですが、朝、お布団の中でふと気がついたのです。

「あれ?なんか、私、腰がおかしくない?」と。

そう気がついてみると、ここ数日少し腰に違和感を感じていたのを思い出しました。
そこで、寝たまま自分の腰をヒーリングしました。
腰の違和感が取れたのですが、なんとその後むっくり起き上がった私の中にその「なさけない、、」という感情がすっかりなくなっていて、いつものとおり「さあ、今日は何をしようか」と一日に対する幸せな気持ちが戻ってきていました。

で、この日はその後、その「なさけない、、」の原因の思い癖が何かの拍子にとんでもなく「ばかばかしいな~」と思うことになるというちょっとした気づきが起こり、「あ~、この気づきのために毒だしだったのか」と納得したにもかかわらず、夜にはまたちょっと「うつうつ」した感情がなぜか戻ってきてしまいました。

「困った」と思いながらお風呂に入りました。
お風呂から上がって気がついたのですが、また腰が治ったときと同じように「うつうつ」の感情がなくなっているのです。
「あれ??お風呂であったまったら、うつうつがなくなってる…」
不思議な感覚でした。

心の健康には体の健康が欠かせないことは、スピリチュアルじゃなくとも常識になりつつありますが、やっぱり不思議ですよね。

※※※

私の最近考えていることはこんなことです。

もし、人が、自分の体のことをある程度コントロールすることができたら、どうなるのだろう。
突然出てくる体の不調におびえることなく、ちゃんと自分の体のことに対処できるというスキルを持つことができたらどうなるのだろう。
コントロールできない、コミュニケーションできないと思い込んでいる自分のこの体と話し合いながら、人生を送れるようになったらどんな感じなんだろう。。

それができれば、人はもっともっと「自由」になり「独立」するのではないだろうか。

もし、それが「普通の人」である自分ができるようになったら、それはどんな人でも可能なはずだ。


そんな風に考えると、なんだか「ワクワク」するのです。

だから少し前、本気で神様に祈ってみました。
「私は体を治すアプローチを知りたいです!本当に知りたいのです!もしそれを知ることができるのなら、私は必ず知ったことを人に伝えます!」って。

この祈りがどこまで通じるのかは未だわかりません。
この祈りの随分前から私はこのことについては本当に強く興味を持っていたのですが、いつも「これかも!」と思ってはその後はなんか進まず、なんかもやもやしてしまい、結局は「体」は難しいね…」って感想しかもてませんでした。

でも、祈った後、個展の少し前に、すごいびっくりな経験をし、初めて「もしかしたら」という気づきを得ました。
その気づきはまだまだ不安定で、本当なのか、効果があるのか、そんなことも検証の数が少なすぎてわかりません。
今までのように「やっぱ、よくわからん。。体は難しいね…」という結論になるのかもしれません。

だから、この状態でここに書いていいのかもわからないので、書くべきか迷っています。
でも、このことをまだ書く段階ではないかもと、別のことを書こうとしてもまったく思考が動かないのです。
ということで、ちょっとだけ次回この気づきについて書いてみたいなと思っています。

by atelierkei-0520 | 2019-07-11 21:41 | ◇日々の気づき

アセンションの「訓練」ツール・「表現できる」への移行

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久々に通常投稿を再開しようとすると、ちょっと勝手が違って、書きたいこと伝えたいことは頭の中に溜まっているのに、何から書いたらいいのか迷ってしまう。
「週何回」とかでも心の中でなんとなく決めていると、例え「今日は書けるかな?」なんて思っていたとしても、始めると何かしら書けてしまうから改めて「習慣」ってすごいなと思う。
こういうのもある種「訓練」だとも思うようになっていて、そして実はここに、すごく大切な要素が潜んでいるように最近は感じている。

「幸せ」について考えたとき、様々な切り口があるし、人によっては感じるところはそれぞれだろうと思う。
こういうものは主観的なもので、人から押し付けられるものでもない。

でも最近思うのだ。
「自分であってよかった」とか「自分もなかなかじゃないか」とか、「生きててよかった」とか、そんな風にこの世に存在していることに「喜び」を感じられることもまた「幸せ」の一つで、そんな自分の存在に喜びを感じられる具体的な要素の一つが「表現できること」なのではないかと。

人は自分の思うこと、感じること、気づいたこと、見たこと、体験したこと、そんな自分自身の感覚を、方法はどんなものでもいいので「表現できる」と満たされると思う。

「表現する」ではなくて
「表現できる」

「表現できる」って言うのは、自分以外の誰かに届けることが「できた」と思えるかどうかってことだ。

私がブログを書く理由もやっぱりこれなのだ。
「感じたことを誰かに伝えたい」
それは自分自身の中にある思いを表現したいという欲求があって、人に読んでもらうことでそれは満たされる。
ジュエリーを作ることも同じ理由だと思う。

でね、世の中で起こる様々な事件の根底には、この欲求が満たされていないことから起こっているような気がする。
わかってほしい思いがある。
でも表現できない。
どう表現していいのかわからない。
そして結局「自分は理解されない」「受け入れてもらえない」と自分を囲って追い詰めていく。
結局は「自分はここにいてはならない」そういう風になっていく。

人が「切れる」ときは大抵ここが上手くいかないのが問題だと思うし、逆にここができれば人はずいぶん楽になるんじゃないかなって思う。
事件を起こす人だけの問題じゃなくて、私たちが日常感じるちょっとした「イラッ」とした気持ちや「トゲトゲ」した気持ちや、小さな揉め事の根底にはやっぱりこのことが潜んでいると思う。

だから心が満たされていく感覚を持ちたいのなら、まずは「表現する」を実践し、「表現できる」にまで持っていくようにするというのも一つの方法ではないかなと思ったりする。
ある種の「訓練」だ。

「表現する」を「表現できる」までに発展させるために必要なのはたった一つ。
いつも「伝える」ってことをどこかで意識することだ。
「どうやったら伝わるだろうか」ってことを少しだけ考えることだ。
それは誰かに合わせるとか、媚を売るとか、そういうことではなくて、ちょっと引いた視点を持ってみるってこと。

へたくそでも、完璧でなくてもぜんぜんよくて、でもそういう「伝える」って視点を常に持って、何とか「表現する」を続けていくと、「できる」という感覚を持てるようになれると思っている。

ツールはなんでもいい。
「書くこと」でも「話すこと」でも、「描くこと」でも「作ること」でも「歌うこと」でも「踊ること」でも。

私は「言葉を使う」ことが好きなようなので、書いたりしゃべったりする。
でもそこに国語的な正確さはないと思う。
でもそれでも、自分の言葉の使い方や文章の書き方が自分の個性になっていると勝手に思ってる。
でも同時に「伝える」って点もいつも持っているので、何度か読み直して、主語のない部分には主語を付け足したり、句読点の位置を変えたりと、素人ながら工夫する。
まあ、最近は「だらだら」書いている感もありますが^^;

「表現する」から「表現できる」へ。
大事なのは自分が「どうやらできてるようだぞ」と思えるかどうかで、もちろん他人の意見に翻弄される必要はないのだけれど、これが感じられるようになるためには、受け止めてくれる「他人」の存在が間違いなく必要である。
だから、その辺りのバランスを取れるように自分で自分の内側の大切さを再確認したり、同時に外側の人々の視点に立つことも求められる。
「自分と他者の共存」
これは、そんなものまで育てていけてしまうアセンションにはもってこいの訓練でもある。

個展に来てくれた「エンジェル・サポート・レッスン」の卒業生さん2人がとても輝いていたと先日書いたが、彼女たちもそこに果敢に挑戦しているのだと知って、なるほど、だからキラキラしてるのかとも思った。

私たちが幸せな気持ちになるときは、宇宙が私たちを作った目的に沿っているとき。
宇宙の目的は「知る」こと。
効率よくそれをするために宇宙は私たちを別々にした。
だから「共有すること」「共感すること」、それができたとき、人は「生きててよかった~」って思うんだと感じています。

今日も読んでくださって感謝です^^♪

by atelierkei-0520 | 2019-07-05 23:02 | ◇日々の気づき

「ガラクタ捨てれば自分が見える」風水整理術入門:カレン・キングストン著

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いよいよ10連休が始まりましたね^^
といいつつ、私は展示会2ヶ月前ということで、連休どころではありませんから、やっぱり特別なこととといえば、平成が終わり「令和」になるってことのほうでしょうか。

さて、先日もチラッと書きましたが、ここ最近の浄化の仕上げとしてのように突然「ガラクタを捨てよう!」という気になりどうしても処分できなかったものをついに処分しました。こちら↓



で、その気にさせた本というのが上の写真のこの本です。

「“ガラクタ”捨てれば自分が見える」風水整理術入門:カレン・キングストン著」

「風水」と聞くと実は私はちょっと苦手です。
何故かというと、「きまり」が多すぎるからです。
方角・色・場所・間取り…あげればきりがありませんし、人によって見解も違うし、何より本当は素人では理解できない難解な学問のような深いものであると思うので、理解する前にギブアップしてしまいます。

ところが、この本は違いました。著者が欧米人だからでしょうか。
良く聞く「風水」の話がどうやったら運が良くなるかってところに着目して、色や方角や置くものについていろいろと語っているのに対して、この本はどうやって自分の周りから不要なエネルギーを取り除くかってことのみにフォーカスしてくれていて、内容は完全に「スピリチュアル」でした。
自分にとっていらないものを処分していくことをエネルギー的に理解してやってみようという内容で、それは完全に「内観」「浄化」について語られているものでした。
少し極端なので、はじめは私のモヤモヤした気持ちの声が「そんなに割り切れたらそもそも問題なんてないんだよ!」なんて抵抗もしたのですが、読み進めていくうちに、なんか体がうずうずしてきて、“ガラクタ”を処分したくてしょうがなくなるという状態になり、結果20代の自分への執着を剥がすという大浄化の時間を持つことになるという不思議な効果をもたらしてくれた本です。

ちょっと古い本ですが、「断捨離」なんかがよく取り上げられるようになった今、十分受け入れられる内容でした。
簡単な内容で当たり前のことが書かれているのですが、何故かパワーをもらえた気がします。書いた人のエネルギーによるものかもしれません。

明日は「鳩の目覚め」という大きなエネルギーが降りてくる日のようです。
先日ある生徒さんが気がついてくれたのですが、「鳩=ハート」なのかもと感じています。
「ハートの目覚め」
記事の内容とも合致するので、きっとそうなのではと思っています。
たくさんの人たちが自分のハートの声に耳を傾けるようになる、それが「令和」の時代かもしれません。
これからのエネルギーをしっかりと受けとるためにも、もう手放してもいいものは手放して、新しいエネルギーのための「スペース」を明けてもいいかもしれませんね^^

それでは皆さま、良い連休をお過ごしください〜♪
こちらのブログも連休をいただいちゃうかも……。。そろそろ恒例の「強化月間」に入らなければいけませんので><!
つぶやきは書いたりするかもしれません!

by atelierkei-0520 | 2019-04-27 23:10 | ◇日々の気づき

心は全て「わかってる」

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先日の幽霊さんの出来事がちょっと面白かったのでここでシェア。

少し前の投稿でちらっと書いたけど、先日久々に外で幽霊さんを引っ付けて帰ってしまった。
私は大抵夢で見ることによって引っ付けてしまった幽霊さんを知ってしまうのだが、この日も久々に夜中うなされてそれを知ることになった。
ところがこの日の被害者は私だけではなかった。
この幽霊さん、かなりタチが悪くて、今ワンコの看病のため、母と同じ部屋で寝てるのだが、なんと、私の隣で寝ていた母までうなされてしまったのだ。(だいぶ目が離せるようになったワンコはこの日何故か私達と一緒に寝るのを拒否。後から幽霊さんのせいだったかーとワンコに感心したのだった。。)

夜中目が覚めて、もーやだー(-ー;)ともんもんとしてると、母がトイレに立ち戻ってきて怖い夢をみたというのだ。
どんな夢かというと、弟の夢だったという。
弟がかなしみのあまり気が触れて、夜の繁華街を叫びながら徘徊していて、胸が張り裂けそうになった母が助けに行こうとすると、私が「お母さん、あの人はもう完全に別の世界に行ってしまったんだよ。私達にはどうすることもできないんだよ!」と言って母を止めたというのだ。弟が見知らぬ男達に連れて行かれるところで目が覚めたらしい。

起きた母はかなり動転していて、もし今弟が本当にああだったらどうしようと半泣きで何度もつぶやいていた。
そこで私は母にこう聞いてみた。

私:お母さん、あのさー、それ、本当に弟だった?本当の本当に弟だった?それから本当に私だった?

母:へ?だって、確かにそう思ったんだよ。夢の中では確かにそうだと思ってたんだよ。

私:落ち着いて「今」考えてみて。あ、頭で考えたらダメだよ!心で考えるの。心で感じるの!

母:………
………そう言われてみるとね、、、なんか、切り絵みたいだった。とても平面的でカクカクしていて…。。
以前おばあちゃんとペギー(先代ワンコ)が初めて夢枕にたった時の感じとは全然違ってた。あの時は、ふたりともシルエットだったけど、丸くて立体的で、確かにおばあちゃんとペギーだった。。
私:お母さん!それだよー!それ!
違うでしょ?違い、わかるでしょ?
今日の夢は私が引っ付けてきた幽霊さんがお母さんの脳の中の材料を使ってお母さんが一番ダメージを受ける映像を見せてきたんだよ。間に受けてたら幽霊さんの思うツボだよ!
悲しんだり怖がったりしたら喜ぶだけだから忘れて寝るにかぎるよ、寝よう!

こういうと、母は落ち着いてまた寝出した。
私もバカバカしくなってその後はスカーっと寝てしまった。


私たちの心は、本当はすごい。実は真実というものをちゃんとわかっている。
「真実」っていうのは、本当はこの世界には「光」という「愛」しかないってこと。
だからそれがないものはただの「幻想」にすぎないのだ。

母が見た夢の映像はとてもチープで「愛」というものがまるでない。あるのは心の闇に付け込もうとする低い意識。
夢に限らず、幽霊さんに限らず、目の前の現象に何の光りも感じない場合は、関心を示す必要はない。
その意識を責めたり憎んだりする必要さえもない。なぜなら、その低い意識は「幻想」だから。その低い意識さえも本当は光なのに「低い」と勘違いしている幻想なのだ。
幻想に何をぶつけても空回りして疲れるだけなのだ。

母はあの夢を「真実」と捉えることもできるし、反対に取るに足らない「幻想」と取ることもできる。
結局何をとるかはその人次第、「自由」でもある。
どんな選択をするのも自由だけど、もし「真実(光)」を選びたいと思うのなら、感じていること見ていることを、一度落ち着いて頭ではなく「心で考えて」みるといいかもしれない。

「自分がどう感じるかが全て」
これは間違いないのだけど、注意点としては私達が感じていることの中には、意外と自分のものじゃないものも混じっている。
目の前の大切な人が持っている感情を自分の中に取り込んで、自分も同じ様に感じていると思い込んだり、幽霊さんの入れ込んでくる感情を自分の感情と勘違いしたり。これもまた「幻想」の一種だ。

だから、強い感情を持った時は、その感情に流されてしまう前に、ちょっと自分に聞いてみるといいと思う。本当にこれは私の感情かな?って。
そうすると、これまた不思議で心はちゃんと答えてくれる。不思議と自分のかそうじゃないかは心でしっかり分かるのだ。

「わ~」となっている時の心で感じるんじゃなくて、一端そこから離れて静かになって、静かな心で感じてみる。
そうすると必ず私たちは「わかる」もんなんですね^^
よかったら試してみてください^^





by atelierkei-0520 | 2019-04-25 23:16 | ◇日々の気づき