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自分の話:過去世編・アイスランドの記憶⑥

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「自分の話:過去世編:アイスランドの記憶①」
「自分の話:過去世編:アイスランドの記憶②」
「自分の話:過去世編:アイスランドの記憶③」
「自分の話:過去世編:アイスランドの記憶④」
「自分の話:過去世編:アイスランドの記憶⑤」
(今までの「自分の話シリーズ」

自分の中の真実につながった時、それまでは「点」で存在していたあらゆるものが、一気に繋がることがある。
それはまるで目の前のベールが取れるような感覚で見ていた景色がクリアになり、「知る」ということが自分にもたらす浄化のパワーに圧倒される。

自分の部屋で、たった一つ、とてもシンプルな記憶を取り戻した時、私はそういう状態になった。
全てが繋がったのだ。
私は自分が閉じ込められたのだと思っていた。
でも実際は反対だったのだ。
閉じ込めたのは、「私」の方だった。
なぜそんなことをしたのか、どういう理由があったのか、そんなことはもはやわからないけど、私は自分が行ったその事実をずっと何世代にもわたって負ってきたのだった。
そしてそれは、私が魂的に大切なものを得た時に初めて、閉じ込めた「彼ら」の魂を迎えにいくことができ、事実を思い出した時に解消されるものだったのだ。

最終的に、私はアイスランドでのシャーマンとしての過去世を3つ知ることとなった。
一つ目は生徒さんが見てくれた「自然と光と喜びに満ちているけど人の姿は見えなかった」という人生。
二つ目はこれも生徒さんが見てくれた「男の人のシャーマン」という人生。
そして3つ目は全てがわかった後に、自分で見に行った時に見えた「キリスト教がアイスランドに入ってきた頃に生きていた、シャーマンとしてはまだ未熟な女性」の人生。

はじめ、私はこの大変な過ちを犯した自分は3つ目のまだ少女といってもいいくらいの女性のシャーマンかと思った。
この子はまだシャーマンとしては未熟だった上に、その頃アイスランドに入ってきた新しい考え方・キリスト教にも心が傾いていたようだった。
「だからシャーマンとして判断を間違えたんだろうか」と思ったが、少し時間を置くと、そうではないということがわかってきた。
人が決定的な過ちを犯す時には様々な要因があると思うが、その中でも「未熟さ」故の判断の誤りよりももっとエネルギー的に重いものがあると思う。
それが、「傲慢さ」や「力の過信」などエゴによる過ちだ。

私がシャーマンとして最も力を誇っていた時、自分の能力や経験にこれっぽっちの疑いも持っていなかった時にこの過ちが行われた。それが二つ目の男の人だった時のシャーマンだった。
この私の過去世を見てくれた生徒さんとは、実は神戸の事件で私の右隣にいた友人だった。この過去世にアクセスした彼女だからこそ、あの時点で私の今回の「ホントのところ」に気が付いていた。
でも、私は過去世を見てもらった時もそれを深く掘り下げようとはしなかったし、彼女も真実に気が付いたのに私に伝えなかったというのは、全てがわかって振り返っても不思議なものだと思う。

自然は私たちとはまた違った次元の考え方を持っていると思う。
自然を人間の方に近づけることは難しい。自然の声というものを私たちの人間の頭で理解できると思うことにも無理がある。
ただ、頭では理解できなくても、歩み寄りを可能にする視点が一つだけあって、それが「愛」というものなのかなとも思う。人が生きる上では人の方が自然の方に寄り添う必要があり、そこを学んだりもう一度取り戻そうとしているのが「今」という時代だと思う。

初期のころのシャーマンとしての私は常に自然と共にあったのだろう。それは今のように改めて考えたり学んだりすることではなく、ただ自然とそうであったんだろう。だからその時代を見てくれた生徒さんの表現では「自然と光と喜びに満ちているけど人の姿は見えなかった」となったんだろうと思う。

2つ目の「男の人のシャーマン」というのを生徒さんの口からきいたとき、黒い背景に立つ男性が一瞬見えた。この時それは深く考えなかったが、この人物がやってしまったことが今回のことに繋がったんだと思う。彼からすると自分の判断に微塵の迷いもなかったのではないか。
それは「自然」というものに対してか、またはそれに近い「神」というものに対して行われたものだったのだろうけど、人とは違う次元でものを見ている「自然」や「神」が彼がイメージしたような、そんな要求をすることはあり得ないことだ。
もし、それが「自然」や「神」が要求したことだと感じたのだとしたら、それこそ人の都合に自然を無理やり当てはめようとした先に出てきたものではないかと思う。でも、そのおかしさに気が付かないほどこの時の人は自分の力を信じていたんだろう。

3つ目のちょっと頼りないシャーマン見習いの少女は、自分の過去世が犯した罪を知っていた。
そして自分が閉じ込めた魂を解放するために吹雪の中洞窟に向かうが、その場所で「魂の解放」というものがそう簡単に行われるものではないと知り結局は果たせずにその帰りに絶望の中、吹雪く雪の中で凍えながら息を引き取った。洞窟に沢山の魂を残したまま、彼女は天に上がっていき、そこから一人「人」としての転生の道に入ることになる。「生きる」ということを学ぶために。

私が今回、アイスランド人としてではなく、またシャーマンとしてではなく、敢えてスピリチュアルな視点を封印してその地に入ったのには、この3つ目の経験があったからだと思っている。
それくらい魂的に強烈な記憶で、全ての記憶を持ってその地に入った時の衝撃は計り知れないものだったのだと思う。だからこそ全ての工程で様々なサポートが入ったのだ。
冬のアイスランドの動画を見て「寒すぎて死んじゃう」と思ったのも偶然じゃなかったのだ。
この世に「偶然」というものはないのだな。
「偶然」とは、起こっていることの中に必然性を見いだせなかったとき、そこに存在する大きな捉えきれない意図に気がつけない場合に仕方なく使う言葉。
そんなことをしみじみと思ってしまうくらい、いろんなことが次々と当てはまっていくのだった。

つづく

※長くなってる^^;
今週もお疲れさまでした!

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by atelierkei-0520 | 2018-06-17 16:33 | 自分の話